家族で食事をするのはありきたりだし、何か物をプレゼントするのもしっくりと来なかった。
そんなとき、宋さんのメルマガを読んで、ぴったりのプレゼントを思いついた。
「そうだ、息子に生の中国を少しでも触れさせておこう!」
足元はもちろんだが、これから中国を知らずしてビジネスは成り立たない。
ラッキーなことに、宋さんに電話すると予定していた日程にちょうど北京にいることがわかった。
宋さんに一部始終を話すと、即座に「いいことだよ、是非つれておいで」との返事。
息子は、ちょうど10年前、小学生のころに宋さんと一緒に食事をさせてもらったことがある。
子供ながら、その時にも息子はなにかしら強く感ずるものがあったようだった。
今回の北京は、とても短いけれど、何かしら彼の人生に、ビジネスマンとしてのスタートに
刺激のひとつになってくれればよいと思っている。
宋さんが、僕の“小瓶づくり”を快く応諾いただいいた事を心から感謝している。
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「荒海に浮かぶ小瓶」 宋文洲
北海道大学に留学していた頃知り合った親友がいます。アメリカ人牧師のジェセンです。彼も貧乏なのでよく一緒にお金のかからない遊びをしたり、人生や宗教について議論したりしていました。
数年前、私が大変な悩みを抱えていた時、ジェセンが偶然にも用事で東京に来て久しぶりに会いました。事情と心情を打ち明けると彼はいつものようにずっと傾聴するだけでした。しかし、その後のアドバイスは一生忘れられません。
「宋さん、海は時々荒れる。沈まないために小瓶に入って蓋をしめる。サンシャインを受け入れるが、風と水を入れない・・・宗教も心の小瓶です」
ジェセンの誘いで何回か教会にも通ってみましたが、宗教心は持てませんでした。正直にジェセンにそれを告げると彼は「宗教は友人を作るためにある訳ではない」と言ってくれてほっとしたことを覚えています。
宗教が無理ならば、私が入れる小瓶は何だろう。考えれば考えるほど家族しかないと思いました。親友や親戚も考えてみましたが、やっぱり荒海に溺れたかわいそうな心を無条件に受け入れてくれるのは家族のみです。
ホーキンス博士が最近、死後について発言し世界中で物議を醸しだしています。「死後の世界はない。生きている人間が死の恐怖を忘れたいために考えただけ」と。
唯物論を徹底的に叩き込まれた私には当たり前の話ですが、これによって宗教の重要性は少しも損なわれないと思います。宗教は物理的現象への解釈ではなく、人類の心のニーズ(小瓶)だからです。
もし、家族がいなくなると私はどうなるだろうかと考えるとぞっとします。しかし、家族を失うことはよくあります。3・11を経験して分かったように、そのようなアクシデントが前触れもなく突然にやってくるものです。
その時は私の心はどこの小瓶に逃げればいいだろうかと思います。悲しいのですが、これがクラシックな共産主義教育を受けた私の悲劇です。
共産主義はある意味では人類社会を物理学のように科学的に分析しそしてその行き先を「科学的」に予想した訳です。その予想が見事に外れることは言うまでもありません。
人間はただ生きるだけでは満足しない動物です。豊かな心を持ったことで我々は愛情、幸福、希望などの繊細な心を持つようになり、人生の意味について問うようになりました。
本来、これらの心は本能で生きる動物には不要です。この心が我々の弱みにもなり、それが失われると生きる気力がなくなり、「自殺」という本能に反する行為さえ見られます。
家族と宗教はその人間の弱い心を助けるための小瓶であり、科学です。
ジェセンの奥さんがとても優しい日本女性で息子さんも自力で東大に合格しました。例のアドバイスを受けた数ヵ月後、久しぶりにジェセンの家を訪ねました。緑に囲まれた札幌自宅の手製ベランダに座る彼の顔には幸せが溢れます。話題が将来に及ぶと、彼が興奮しながら言いました。「イラクにいって布教・・・」。
最も危険な荒い海に彼は行こうとしていますが、私は黙って頷くだけでした。彼なら大丈夫でしょう。なぜならば彼の心を守る丈夫な小瓶が二個もあるからです。
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素晴らしい贈り物ですね。
両親を早くに亡くした私も、心の小瓶を求めて・・・・・・
友達との度めの青春をたのしむための場所を
作りました。
いいお話をありがとうございました。
ありがとうございます。
息子には、金品ではなく、何かしらの思い出や経験をプレゼントしたいと思いました。