2007年11月26日

原宿 竹下通り

今日は、原宿の竹下通りを5〜6分ほど入ったところにある、

あるお客様に訪問してきた。

28才〜30才にかけて、銀行の原宿支店に勤務していた事があり、

竹下通りは、思い出深い通りだ。

竹下通り.jpg
(渾然一体の通り)

平日夕方だというのに、通りは人で一杯。

背広にネクタイ姿はまばらで、これは昔と変わらない。

若いころ、サラリーマン然とした格好で歩くのが、

なんとなく嫌だった記憶がある。

通りは、中学生、高校生、アジア系の観光客、西洋系の方、

地方からの観光客、ラテン系の方、地元の住民だと思われる方‥

入り混じって、渾然一体となっている。


原宿 ショーウィンドウ.jpg
(きらびやかだ!)

昔からの、「一体誰が着るんだろう?」といったショーウィンドウも

変わらぬ存在感を醸し出している。

その一方で、“大手のドラッグストア”や“100円ショップ”

“コンビニエンス・ストア”なんかもできている。

昔はなかったのになあ。

「別に竹下通りの中になくてもいいのに‥」と思うのだが、

住民の方にも利用されているのかもしれない。

     ↓

     ↓

そんな中、あの「クレープ屋さん」を発見。

昔のまんまだ。

銀行時代、勤務中に背広のまま食べた記憶がある。
(通りの奥でそっと隠れて食べたのだが‥先輩と二人で(笑))

もう何十年もつぶれずにクレープは焼かれ続けているのだ。

ただ、おいしくなければ支持されないはず。

そして、値段もあまり変わっていない様子だ。
(今日は、食べる勇気はなかった(笑))

そして、何よりも、通り一杯に広がる芳醇な香り。

変わらぬ風景には、支持され続ける理由があるものだ、と思った。

posted by 成長企業プロデューサー 小松弘明 at 22:37| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ビジネス ヒストリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月31日

転機とは〜今年の総括

今日で、今年も終わる。

今年一年の締めくくりとして総括すると、

結果として「転機」「決断」の一年となった。

27日にプレス発表したが、僕はソフトブレーンの取締役副社長を退任した。(31日付)

いろいろあった。

一緒にやってきた宋さんが、マネージングアドバイザーになった。
でも、それはそれ。

ひとつ、確かなことがある。

「5年で一部上場」という成功体験を過去のものとして捨て去ることが僕の心の中の
「決断」だった。

捨て去ることができなければ、新たなものは生まれない。

来年は僕にとって“新たな挑戦”の年となる。

工藤さんと共に新たな目標を定めて進むことにした。

“夢”というあいまいなものではない

あくまでも「目標」だ!

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坂本龍馬の言葉にこんなのがある。

「世の人は 我を 何とぞ 言わば言え 

わが為すことは、我のみぞ知る!」


僕も土佐人である。

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2006年12月12日

僕の中のヒーローA

昨日の続き‥

記事が出た翌朝には、武市さんに「手紙」を書いていた。

今でいう、「アポ取りお手紙」だ。ただ、営業のためではなかった

こんな趣旨の手紙だったと思う。

「記事で拝見しました。早速土佐高の名簿で調べたら僕が6年後輩でした。銀行界から転進されたお話しを是非聞きたいんです‥」

今にして思えば、ずいぶん不躾な内容ではなかったかと思う。

自分の名刺を同封し、四季報で調べた住所に送った。
(当時はインターネットがないのだ。)

チョコボ.jpg
(武市さんに頂いたチョコボ。まだ大事に飾ってます!)

2〜3日後だったと思う。
僕の目の前の電話が鳴った。

「あ、小松君?武市だけど。お手紙ありがとう。まあ、固い話しは抜きに、まずは飲もうか!」

なんともオープンなお誘いだった。

高知県人同士のコミュニケーションなのかも知れないが。

実は、僕は全くマヌケな行動に出ていたのに気付いていなかった。

自分の銀行と取引があるのかないのか全く調査していなかったのだ
(本部組織にいるのに‥)

「おたくの銀行と取引あるのは知ってるよね。」

正直に答えた。「知りませんでした。」

今は、笑い話しである‥

 会いたい一心だったのだ。 

二週間後ぐらいの約束をもらい、随分遅くまでサシで話しを聞かせてもらった。

武市さんは、四国銀行から出向でスクェアを店頭公開させるために派遣されていたのだが、店頭公開する前には、四国銀行をやめることを決断されていた。

武市さんが語るのは熱い夢だった。

いつかは、武市さんのようになりたい‥

その夜から武市さんは“僕の中のヒーロー”になったのだ。

続く‥

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2006年12月11日

僕の中のヒーロー@

ちょっと思い出話になる。

2000年、僕は大手都市銀行を38歳で中途退職し、ソフトブレーンに転職した。

周りの皆は突然の決断に驚いたり、心配してくれたりした。

でも、宋さんに誘われた時、僕の頭の中には、ひとりの“僕の中のヒーロー”の顔が浮かんでいた。

先週、その“僕の中のヒーロー”と食事をした。

今は、株式会社トリニティーセキュリティーシステムズ代表取締役会長を務める「武市智行」さんだ

1996年ぐらいだったと記憶している。

日経新聞の人事欄を当時勤務していた銀行の社債によるファイナンス支援部門のオフィスでパラパラと読んでいた。

“新社長の紹介”記事に目が止まった。

ファイナルファンタジー(FF)で有名な株式会社スクウェア(現 スクェアエニックス)の新社長が紹介されていた。

<FINAL FANTASY ]UREVENANT WINGS>
ff12rw_a.jpg
(ちょっとお借りします)

記事を読むと、

「高知県出身」「四国銀行」「武市智行」「慶応大学出身」と書いてあった。

武市という名は“武市半平太!”の武市

ということは、土佐高の先輩かもしれない

直感的にそう思った。

その夜家に帰るとすぐに名簿をめくった。

6年先輩だった。

翌朝すぐに「手紙」を出していた。

なぜだかわからないが、どうしても会いたくなったからだ。


続きはまた‥

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2006年12月04日

誕生日に思う

今日、45回目の誕生日を迎えた。

思えば、あっという間の45回目だ。

ふと、思うところがあって、「島耕作クロニクル」をパラパラとめくった。

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5 島耕作シリーズの歴史


島耕作は、私より14年ほど先輩だ(笑)。

45歳の時、どんなことをしていたか調べてみた(我ながらバカだなあ)。

“総合宣伝部部長”(29Pのプロフィール)をやっている。

そして、254Pからの“島耕作のビジネス哲学”というコーナーから引用させて頂く。

おもしろい“セリフ”があるのだ。

「いやな仕事でえらくなるより、好きな仕事で犬のように働きたいさ」

「何かを棄てたら失った何かを得た‥
人生なんて常にそういうプラスマイナスでバランスがとれているんだ
それに気付いていても何かを棄てるということは難しい気もする‥」


「やるだけやってみようじゃないか
手をこまねいているより まず実行だ」


私自身のこれからのビジネスライフも、かくありたい

話しはちょっと飛躍するが、たぶん、島耕作も「弁証法」を正しく理解している。


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2006年11月03日

なつかなしく、うれありがたい一日

昨日は、東京の西から千葉市まで、横断するスケジュールだった。

午前中、ダイヤモンドビジョナリーの取材で、サントリー府中のスポーツセンターへ。
DSCN0343.JPG
(グランドの芝生のもあざやかでした。)

待望の清宮監督の本番取材だった。
(この中身の一部は、別の機会に書きます。)

午後一番、昼食抜きで、一時間40分ほどタクシー、電車を乗り継いで、千葉市のある会社へ。

その帰り、僕のいた、銀行のマークの名残をたまたま発見。

??Σ.jpg

ほんとうに、たまたま発見したのだが、もうこのマークに出会うとはおもってなかったので、正直びっくり。

いろいろな思い出が頭に浮かんで、なつかしい。

でも、正直、悲しい気持ちにもなった。

M&Aが当たり前の世の中だろうが、「企業のDNA」は、その人の中に生きている。

その「DNA」を最大限に活かしながら、これからの仕事も精一杯励んでいく事が、僕を育ててくれた「の銀行」、先輩諸兄への恩返しになると思う。

これもたまたまだが、昨夜は、銀行OBの集まりがあった。

前のソフマップ会長で、現在スタッフサービスのグループ会社の社長をされている、山科光男さんを囲む会だ。

昨日僕は、夕方の仕事の仕舞い方に手間取り、会に遅刻してしまった。

山科さんからは、

「会は、前々からスケジュール化されていること。その会に遅れてくることは、仕事の段取りが悪い証拠だ!」

と、しかられた。

このごろ、しかられることが少なくなってきた僕にとって、組織を超えてアドバイスして下さる方がいることが、何よりもありがたい。

山科さんは、“伝説のバンカー”。

写真はお見せしなかったが、山科さんに教えていただいたことは、これからも自分の中で、活かしていきたいと思う。

なぜかわからないが、「なつかしい」「かなしい」「うれしい」「ありがたい」が一度におきた不思議な一日でもあった。



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※僕のBIZ BLOODはGREENです。
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2006年05月31日

ダイヤモンドビジョナリーへの想いC

5年ぶりの再会は、一気に時間が逆行し、私は「鹿谷社長」と呼べず、つい、「部長」「部長」と連呼しそうになっていた。

鹿谷社長は、「お前自身の人生だから」と、私の転職に対して一切引き留めることをしなかった。(引き留める事が部下に対する愛情だと考える方もいるようだが、それは、どうも気味悪い話しだよなと、鹿谷社長はおっしゃる。)

鹿谷社長ご自身も、銀行から紹介された企業とは一切無関係にダイヤモンド社にご転職されていた。

近況報告の後、「ダイヤモンド・セールス編集企画」社を買い取りたい趣旨を話した。
今回は躊躇なく、正面から申し出た。

「ソフトブレーングループ全体で接点のあるお客様を正面から様々に記事にしていきたい!」

「書店の販売チャネルだけではなく、セミナーや、サイト上でも紹介していきたい!」

「今までの出版社ではありえないサービスもやっていきたい!」

と部下が部長に稟議説明をするような感じだったと思う。

鹿谷社長から、前社長に売却打診していただけることになった。結果、円満に譲渡いただくことになり、今に至るわけだ。

しかも、「ダイヤモンド」という冠は、我々が使ってもかまわないという条件まで頂いた。

こうした「奇縁」ともいう話しから、「ダイヤモンドビジョナリー」は生まれた。

新装刊にいたるまで、5ヶ月弱かかったが、その間も「縁」がこの月刊誌を支援してくれているように感じてならない。

ダイヤモンド社は創業から90年になられるそうだが、このブランドを傷つけないよう、がんばるつもりだ。


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2006年05月30日

ダイヤモンドビジョナリーへの想いB

2001年、2002年は二年連続で大赤字だった。
まだ、ソフトブレーンとしての営業プロセスを確立できず、中々実績が伸びなかった。
以前、「ショーンKさんとの出会い」でも書いたが、とにかく会社の「認知度UP」も大きな営業プロセスのひとつだと感じていた。

大企業では、自分の会社が既に認知されており、営業のステップが一段階省略されていることが案外意識されていない。

当時「東洋経済」さんで、ソフトブレーンの記事が出た。
すぐに、なけなしの予算で「抜き刷り」を作成して、営業の皆で配布した。

お客様からのご支援や宋さんを筆頭にした全従業員の一丸となったプロセス改善で、ソフトブレーンは、2004年6月に二部上場、2005年6月に一部上場という恵まれた成長をする事ができた。

認知度があがる度に無駄な営業が省けるようになっていくと実感した。

一部上場が明確に視野に入ってきた2005年のある日、新聞を見て、驚いた。

私のよく知っている方がダイヤモンド社の社長に就任していたからだ。
その方は鹿谷史明さんだった。

私が辞表を提出した「企業部」部長、その人だ。

以前、宋が「上場したら、雑誌社がグループにあったらいいね。」といっていた事を鮮明に思い出した。

さっそく、鹿谷社長に面談を申し込んだ。

以下、次回に‥‥

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2006年05月29日

ダイヤモンドビジョナリーへの想いA

2000年4月に、16年務めた都市銀行から、転職した。38歳だった。

銀行時代の後半、私はトラディショナルな銀行員ではなく、「社債の発行推奨」や「IPO支援(VCに近い)」等、銀行の中でも「直接金融」に関わる仕事を、「企業部」という部署で行っていた。

支店の営業担当者を支援し、今風に言えば、お客様に最適のソリューションを提供することをミッションとしていた。

支店の担当者と同行訪問し、先方会社のニーズにあった調達方法や、雇客の紹介をしていた。

99年の秋も深まったある日、八丁掘支店のI君から、電話が入った。

「支店のそばで、中国人がソフト会社をやっていて、上場するといってます。無借金で、銀行取引は中々深くなりません。」

ソフトブレーンも99年時点では、全くのベンチャー。
ソフト開発会社で、中国人が経営していて、上場指向の会社に私は初めて出会った。

I君と一緒に宋さんと面談した。
銀行で直接投資しようと目論んでいたが、上場前の最終ファイナンスは事実上終了していた。つまりほとんど役に立てないという事だった。

仕方がないのと意地で、銀行社内向けにソフトのデモの機会を提供した。
(結果は数年後の受注につながるが、その時点では空振り。)

これに宋さんは何かを感じてくれていたらしい。
2000年3月に「ソフトブレーンに来ないか?」と誘ってくれた。

40歳になる前にチャレンジしたい衝動にかられ、一晩で結論を出していた。

一週間ぐらい後に辞表を部長に提出した。
部長は、目を丸くして、40近い男の転職を随分心配してくれたが、
「お前の人生だから」と反対はされなかった。

辞表提出した日の午後、銀行の「統合」が新聞発表された。ちょっと惜しい気持ちもあった。
銀行の仕事が嫌になっていた訳ではなかったからだ。
当時、むしろメガバンクになれば、仕事は更にダイナミックになる可能性も高かった。

以下 次回へ

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2006年05月26日

ダイヤモンドビジョナリーへの想い@

「ダイヤモンドビジョナリー」を編集しているのは、「ダイヤモンド・ビジネス企画」という会社で、ソフトブレーンが70%ダイヤモンド社が30%の資本出資をしている会社だ。以前は「ダイヤモンド・セールス編集企画」という会社だった。

もう三年近く前になる。
宋さんが、最初に書いた「やっぱり変だよ、日本の営業」が大ヒットし、認知度UPの効果が絶大で、我々の営業も少しづづ楽になってきたところだった。

やっぱり変だよ日本の営業―競争力回復への提案


ある日宋さんが私に
「こんな雑誌知ってる?取材依頼されたんだけど‥」と見せてくれたのが、
「ダイヤモンドセールスマネージャー」という雑誌だった。

そして、ソフトブレーンの代表的なパッケージの名前は、「e-セールスマネージャー」だ。

まるで、駄洒落のような話しに二人で大笑いした。

ただ、「将来、こんな雑誌社がグループにあってらいいね。」
「社長のHさんにとりあえず会っておいでよ。」と宋さんが言った。

その頃は、ソフトブレーンの経営の優先課題は「二部上場」だった。
当然余裕はないが、将来の準備にもなるし、ということで、前の社長のHさんに面談しに行った。

「将来、この会社を譲っていただく気持ちはございますか?今は余裕ありませんけど。」
なんて、初対面で聞くわけにも行かないし、そんなにイケ図々しくきりだせるほど肝がすわっているわけでもない。

一時間ぐらい話して、「ソフトブレーンをもっと取り上げてくださいよ」と結局こちらからの取材のお願いをして、それっきりになった。

以下 次回‥‥

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2006年04月27日

私のビジネスマンとしての原点

大学を卒業したらすぐに、都市銀行(もう死語ですね)に就職し、東京下町の支店に配属されたのが、私の社会人としてのスタートだ。昨夜、そのはじめての支店勤務をした時のH支店長、F主任、一年次後輩のO君と久しぶりに呑んだ。

銀座支店とか、新宿支店とか有名な駅名がついていない支店に配属された事で、ちょっと同期に負けたような気がしていた。(O君も同じだったらしい)それを救ってくれたのが、F主任だ。当時、研修は大阪で10日間ぐらい行われ、すぐ支店でOJTしながら仕事をおぼえていく形をとった。大阪の研修所から新幹線で東京に帰ると、新幹線のホームでF主任が待っていてくれた。

ニコニコしながら、「Fです。これからよろしく!」。

多くの同期の中で、そんな歓迎をしてもらったのは、私だけだった。とにかく嬉しかったし、同期もうらやましがった。翌年、F主任と私でO君を出迎えた。やはり、O君も嬉しかったそうだ。

H支店長は私にとって最初の支店長ではない。二人目の支店長だ。前任の方は、どうも‥?という方だった。その支店長の在任期間は、成績もぱっとしなかった。

転勤で来られたH支店長は当時40歳(だったらしい)。若々しく、他社からの出向を終え、はじめて支店を任され、情熱的に支店経営をされた。(出向で)「外」を知り、様々なマネージメントに触れ、異なる「企業文化」に触れておられた。H支店長になって仕事のやり方ががらりと変わった。まず、結果を出すためのやり方と、その目標を明示してくれた。きわめてシンプルに。

「一人2000万、預金を増やそう!」だった。

「人は多くのことを一度にたくさんできないよ」と昨日もおしゃられていた。

そして、結果が出ないやり方では仕事が面白くないことを、営業をはじめたばかりの私やO君にもわかりやすく説明してくれた。

三人とも同じ意見だが、「H支店長になって仕事がおもしろくなったよな。」

H支店長の域には中々到達できていないが、まねをしている事がある。
いい仕事をすると、H支店長は「セッ!セッ!」と大きな声をだしながら握手してくれた。
その握手は、出向されていた会社で大きな商談が決まったときにやったそうだ。
僕もよく握手することにしている。

当時の銀行支店長は部下にとって、とても「偉い」存在で、支店長が握手してくれるなんて、晴天の霹靂のようなものだった。握手してもらいたくて、仕事した。
O君とはいいライバルで、O君が握手されると燃えた。

いろいろ書くとキリがないし、思い出話だけになってしまうので、この辺にするが、マネージメントには、時代を超えた基本が存在する。
H支店長、F支店長、O君とはたぶん、「上司・部下」という単なる会社組織ではなく、同じ目的にむかう「チーム」だった。

帰り際、皆で再会を約束した。
肩書きとか、当時のままでよびましょうと提案したら、皆、快諾!
「初心」に戻れた。こんな「仲間」に育てられたんだ!と幸せ一杯の夜だった。

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